醤油かソースか、キノコかタケノコか…とかく人というものは争いの絶えない生き物である。
先日店のスタッフが「まかないをコロッケにします」と言い出した。「そんなものはやめろ!」、僕が反対したことによったまたひとつの争いが生まれてしまった。コロッケはご飯のおかずになるか否か、そんなことで三十路過ぎの男とアラサー女、さらには四十路を迎えた男までも巻き込んだ論争が始まってしまったのだった。争いは「誰もコロッケ丼は食べない(提案したスタッフすら)」という結論のもと、無事却下となり結末を迎えた。
コロッケは値段こそ安いが、いざ作るとなるとなかなか手間のかかるものである。玉ねぎをみじん切りにしてひき肉と共に炒め、じゃが芋をふかして潰して混ぜる、さらに小麦粉をつけて卵にくぐらせパン粉をまぶして揚げてようやく完成。鍋ひとつでお手軽に、とはいかず、そこまでして作ったものが一個一〇〇円程度で買えるのならば、ついついどこかで買ってしまいたくなるのもうなずける。スーパーでもコンビニでも買えるが、やはりコロッケといえば肉屋で買いたい。赤々とした肉が並ぶ冷たい透明のケース越しにコロッケを受け取ると、包み紙の向こうから衣のザックリした感触とほのかな温もりが伝わる。気の利いた店だとソースなんかも置いてあって、持ち帰り用の袋などもらわずにその場で食らいつく。寒い季節だとなお良し、これぞ買い食いの醍醐味である。かなり熱が入ってしまったが、僕は肉屋を見つけると惣菜コーナーをチェックせずにはいられないくらいに肉屋のコロッケというものが好きである。
人生で初めて口にした肉屋のコロッケは、近所の商店街の肉屋のものであった。そこは不思議な店で、肉屋だというのにコロッケに肉が一切入っていなかったのだ。じゃが芋と少しの玉ねぎだけ。芋には少し皮が残っているようで、ほんのりと土の香りがした。ザクッとして存在感のある衣も、家で母親が作るそれとは違っていて、小学生の僕はたちまちに店のファンになった。はじめは母親が買ってくるか、一緒に買い物に行ったときにねだっていたのだが、そのうち自ら買いに行くようになり、買ってきたコロッケを、同じく近所のパン屋で仕入れたロールパンに挟んだコロッケロールは一番のおやつになった。もちろん、ご飯に乗せるようなことはしなかった。
今思えば僕が肉屋のコロッケを食べまわっているのも、あの土の香りのするコロッケを探しているのかもしれない。ちなみに、こんなことを書くと今は無き店のように思われてしまうかもしれないが、未だ店は健在である。店主のおじさんは今日も元気にロールキャベツを巻いていることだろう。
以前鹿児島で名物の黒豚を出す店に行った時のことである。会計の時に「美味しかったです」と一言添えると、店のお姉さんが東京にもお店があることを教えてくれた。よかれと思っての気づかいであったのだろうが、僕らはなんとなくガッカリしたような気分になってしまったのだった。あの虚しさの正体はなんだろうか、東京者のエゴと言われればそうかもしれないが、あの頃高校生だった僕らはきっとそこにしかない「街の味」を求めていたのだろう。
決して名物とは言えないが、そこにしかない、地元の人に愛される肉屋のコロッケは間違いなく街の味である。スーパーやコンビニのコロッケも不味くはない、むしろ美味い。初めての土地で、食べ慣れた味にホッとすることもある。それでも街の味になることはたぶん難しい。
街の味を知ることは、住む人の生活を知ること。その瞬間に、僕は旅だなあと思う。一個一〇〇円前後、誰にでもできる格安旅行を皆にもオススメしたい。そして、土の香りのするコロッケを見つけたら是非教えて欲しい。
文:村上大輔
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