「背中の記憶」
タイトル「背中の記憶」は、長島有里枝さんの短いエッセイである。長島さんが恵比寿駅から、リムアート(現在はPOST という店名となっている)という美術・写真作品集を専門に扱う本屋に向かうところから話は始まる。迷いながらもようやくたどり着いた店内で、アンドリュー・ワイエス(1917–2009)というアメリカの画家の展覧会カタログを手に取る。ワイエスの絵は実に写実的で髪の毛1本1本の動きから風の流れが見えるようなまさに写真のよう。こちらを向いているモデルの視点は遠く、どこか物悲しく、空気の温度が低いよう感じてしまうワイエスの絵に長島さんが引き込まれたように、私も同様だった。
私が初めてワイエスの絵に出会ったのは、2008 年の秋、渋谷の文化村ミュージアムで開催していた個展であった。
大学生活にも都会にも慣れた頃、思いつきで渋谷に出かけた。「東京には美術館がいっぱいあっていいなぁ」という母の言葉と、渋谷には文化村という場所があることを渋谷駅に着く頃に思い出し、展覧会のスケジュールなんて確認せず、とりあえず向かったのである。展示室に入って、この思いつきが正しかったと、自分を褒めることになる。何の知識もなかったが、良く言えば、偏見も先入観もなく、鑑賞することができた。
私は鑑賞時に文字情報をほとんど読まない。宗教画となると別だが、芸術家の作品として発表される写真や絵画はその作家の見ている空間、視点、世界そのもので、その目が何を見たのか、何を伝えたかったのか、何の隔たりもなく感じ取りたいと思う。勝手な思い込みと言ってしまえばそれまでだが、自分なりにそれを理解した時、琴線がぽろんと鳴るのである。
長島さんは一枚の絵に目を止める。広大の草原に髪をゆるく結った女性がこちらに背を向け這いつくばっている。「クリスティーナの世界」という絵の中の女性の背中を眺めながら、長島さんは祖母の記憶をたどっていく。と同時に私は父のことを思い出していた。
退院して自宅療養していた父は自分のベッドと台所とテレビの部屋を行き来する毎日で精神的にも参った様子だった。テレビをぼうっと見ていた私のところへ来て「ちょっと腰を揉んでくれ」と私に背を向けて座った。私の体の硬さや猫背は父譲りで、部活をやっていた頃はそれが原因でよく腰や膝を痛めては整体師のいる親戚宅に親子して通ってプロの仕事を見ていたので、見よう見まねだったが、マッサージは得意だと思い込んでいた。
じゃあ、と意気込んで背中に触れてみたものの、そこにはかつて大食いで運動が好きだった父のたくましい筋肉はなく、床ずれで硬くなってしまった皮膚とゴツゴツ浮き彫りになった背骨だけだった。肌を通して現実を知った私は泣いてはいけないと必死に話題を探し、絞り出したものが、私、進路どうしようかなあ、だった。
高校二年だった私はいわゆる人生の岐路に立っていたが、それほど迷うこともなく、大学に進学することは決めていたし、どんな勉強したいかもどこの大学に行くかもなんとなく自分の中にあったから、今父に何を言われようと変わることはないのだけど、実家を離れて一人で暮らすことになるだろうから、一応、確認だけはしておこうと思ったのだ。
「好きにしたらええ。」
これが父の答えだった。まあそうか。私がもし父の立場だったら同じことを言うだろうなと即座に思い、聞いた自分を少しだけ責めた。そして私に背中を向けたままこう続けた。
「あー、死にたないわ。死にたない。…お前俺と似とるからな、同じような病気には気ぃつけろよ。」
私は溢れ出るものをぎゅっと堪え、うん、という一言を必死こいて絞り出したところで、台所から「ご飯よー。」と母の声がしたのだった。
長島さんが祖母のことを回想していく様子を眺めながら、私はそこに父の姿を思い浮かべ、こんなにも鮮明に焼き付いている光景が自分の中にあったことを知って驚いた。きっとこれまでもこれからも私の指針となるだろうこの「背中の記憶」。
文:藤岡なつゆ
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