エレキギター、バンド、ライブハウス
私は小学校三年生から父が監督を務めていた地域のバレーボールクラブに入り、中学・高校とバレーボール部に入った。高校は県内で一、二を争う強豪校で、それ相応に練習がとても厳しく、甘っちょろい私はすぐに音を上げ、みるみる体調を崩し、一年生の終わりに辞めた。五歳から始めたピアノの習い事は、大人の事情でピアノ教室がなくなり、小学四年の時にあっさり終わってしまったから、続けていたことを自分から辞めると言ったのはこれが初めてだった。これを挫折と言うのだろうか。
部活を辞めてから私の放課後はぽっかりと時間が空き、とりあえず帰り道にある本屋で暇をつぶした。田舎あるあるだと思うが、本屋の一角には小さなCDコーナーが設けられていた。品揃えは、コテコテの洋楽とJ‒POPと演歌。と言いつつ、Mステが全てだった私にとっての入り口としては十分だった。限られた小遣いで、アジカンとチャットモンチーの1stアルバムを買った。それからアルバイトを始めて、溜まったお金でエレキギターを買った。アジカンのギターと同じサンバーストのレスポール。タブ譜も買って、家で弾いていた。そしたら、どこで耳にしたのか、違うクラスの女の子が一緒にバンドをやろうと誘ってくれた。通っていた高校は軽音部がなく、練習場所も借りないといけなかった。学校の近くにあたのは、イベントが入っている日以外はリハスタとして貸し出しているライブハウスだった。それが始めて行ったライブハウス。今は無きMUSHROOM。ライブを客席から見るよりもステージからの景色のほうが先だったということだ。
と、ここまで話しておいて、思い出のライブハウスはそこではない。当時大好きだったアジカンが47都道府県を回るリリースツアーを行い、ようやく三重県に来てくれた。四日市クラブケイオス。ゴッチがMCで「今回まわったライブハウスで最小キャパだよ」と言っていた。よく、もーしーが「好きすぎて直視できない」と言うのだけど、まさにそうで、大好きな人がこんな近くにいるなんて夢のようだったし、しっかりと記憶に残したい一心で、一生懸命見たし、聴いたけど、なんだか霧がかかったような、耳に水が入ったような、ぼんやりした状態のまま2時間が終わってしまった。照明で真っ白になったステージ、後ろの壁沿いで見ていた母と落ちていたアジカンのロゴ入りピック。「あれ、このピック、ベースの人が投げたやつじゃない?」と言う母。それだけが脳裏に焼き付いている。
そんな思い出の四日市クラブケイオスに出演する機会があったが、あれ?こんなところだったか? と疑うくらいで、あの日の私は本当に夢の中にいたのかもしれない。
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